「失敗」ってなんでしょうね。
生きていれば、「失敗した」と感じることの一つや二つ、誰にでもあるのではないでしょうか。
ただ、面白いのは、その失敗というのも、接近して見れば確かに失敗なのかもしれないけれど、時間が経って振り返ってみた時に、「あの時は確かに失敗だったものが、今の自分にとっては成長の糧・必要なこと」になっている。
ということもまた、誰にでもあるように思います。
だけれども、やはり失敗に対する不安や恐怖みたいなものもあって、「失敗は成功の母」とばかりにチャレンジを繰り返すメンタリティを持っている人は少ないですよね。
どうしても「失敗が怖い」となってしまう。
それはなぜなんでしょうか。
失敗の基準は
そもそも、失敗って、誰からみて失敗なんでしょうか。
何と比べて失敗と判断するのか。
おそらく、基準としては「自分が思い描いていた理想像」だと思うんですね。
そこに到達したか、していないか。
後者であれば、「失敗」と捉える。
おおよその捉え方の構造は、こんな感じではないでしょうか。
あの移籍は失敗なのか
ところが、人に向かって「それは失敗だ」と断ずることもあります。
僕はサッカーが好きなのですが、ついこないだもありました。
ある選手が海外移籍したタイミングや準備不足を指摘して、試合に出られる保証もないし、W杯に向けてコンディションも整わない時期に行くなんて「失敗だ」と。
さてこれ、当の本人はどう思っているのか、話を聞いてみたいところですが、でもこれって、人の人生に土足で踏み込んで、お門違いの批判をしているだけ、とも取れます。
なぜなら、確かに直近の結果で見れば、もしかしたらそれは失敗なのかもしれないけれど、サッカー人生全体に引いてみた時に、今回の出来事を失敗とは断定できないですよね。
糧にして、その選手は成長するかもしれない。
一回のW杯を棒に振ってしまった、そのことだけで他人が「失敗」と断定する権利なんてあるんでしょうか。
応援しているとか、そういうのはあるのでしょうが、僕は応援してようがなんだろうが、そんな権利は本来ないだろうと思うのです。
もちろん、自分の利益目的で本人をたぶらかした大人がいるとすれば、それは責任を問われることなのかもしれませんが、選手の人生にとってそれが失敗かどうか、というのはまた別の話のように思うのです。
だって、その経験を今後どう生かすかは本人次第。
「あの時の失敗があってよかった」と思える人生を歩めるよう、彼は努力するんじゃないでしょうか。
成長って、そういうものでしょう。
気にしているのは人の目
結局、失敗が怖いというのは、「人の目にどう映るかが怖い」ということなのかもしれません。
極端なことを言えば、本来自分のチャレンジに対してどうこういう声など、別に気にしなくても良いはずなんです。
自分の中に基準さえ持てれば、別に他人がどう思うかというのは、チャレンジをする・しないには関わらない。
結果はどうあれ、捉え方を変えることはできるし、この先の糧にすることもまた自分次第です。
とはいえ、言うのは簡単で、やるのは実際に難しい。
だけれども、何かを変えたいと思い、それにチャレンジが必要なのであれば、失敗の捉え方を変える必要もまたあるのではないか?
などと思うのであります。
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