アウトプットはもちろん大前提とはしても、それを支えるインプットの質もかなり大事になる。
そういう意味で、自分がこのところ習慣としている読書、それも自己啓発とか薄いビジネス書ではなく、読み応えのある文学作品や専門書の類は、読んでアウトプットをすることで自分の血肉になっていくのだろうな、と思ってはいる。
ただ、ここで問題にぶち当たっていることにふと気づいた。
自分は、果たして「読めているのか?」という疑問がそれだ。
読めているのか?
https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakaiki/20171031-00077603/
このようなコラムもあるが、僕個人でいうと、識字は基本的にできる。
字面は追えるし、意味がわからない言葉があれば調べ、そしてその字面を追うこともまた可能だ。
そしておそらく、ここでいうところの「機能的識字≒読解」もそこそこできているとは思う。
だけれども、特に「古典」と呼ばれる類の本を読むと、「果たして自分は読めている=読解ができている」と言えるのだろうか?という疑問はつきまとう。
おそらく、1冊も「読了」に至った本などないのではないか。。
本を読んでて思った。
識字はもちろんできるし意味がわからなければ調べて把握することもできる。
しかし、それで果たして「読解できているか」となると、途端に話は別になる。インスタントな本を除き、本当に読解できた本なんて、ただの1冊も無いんじゃないか。
— かめだなおと (@kameyan0522) 2018年11月12日
読解とはどういうことか
では、そもそも「読解できている」というのはどういうことなのか。
例によって出口汪先生によればこうだ。
「自分を殺し、筆者の立てた筋道をあるがままに追うこと=論理的に読むこと」
自分を殺すというのは、読んでいる時に感じる異論、反論、同意などの意見や、好き嫌いなどの感想をまずは排除することを指している。
これができないと、「筆者の立てた筋道をあるがままに追う」ということができない。
なぜなら、結局自分が読みたいように読んでしまうからだ。
それはそれで、1つの読書体験としては良いのかもしれないが、少なくとも筆者の論点とはズレることが多くなり、仮に議論するときにも平行線をたどるだけになるだろう。
つまり読解とは、相手の主張の論点を掴み取ること、とも言えるかもしれない。
自分は本当に読めているか
こう考えたとき、出口先生に教わる前の自分は、ほぼ「自分を殺す」というのができていなかったように思う。
森鴎外の舞姫を読めば「豊太郎はクソ野郎」で感想は止まり、この作品の時代背景や鴎外の意図なども無視して自分の感想を垂れ流していた。
これは、上記の定義でいう「読解」はできていない状態と言える。
自分が読みたいようにしか読んでいないから、自分の思考力が深くなったり、新たな視点が得られるということもない。
暇つぶしの読書を貪っているにすぎなかった、と言えるかもしれない。
だから、常に以下のような自分の中で問いは持っておきたい。
・今、自分を殺せているか
・筆者の論点はどこか
・要約するとすればどうなるか ※要約は、自分の主張が入り得ない
それができて初めて、自分の感情がどう動いたか、感想・意見としてはどうか、が乗っかってくるのは良いと思う。
まとめ
この記事では、特に具体的な主張があったわけではなく、「自分は果たして読解できているのか?」という問いを共有したかった。
読書をするときは、どうしても自分の主張が先に出てきてしまう癖が付いているため、筆者の考えに理解が及ばないことが多々ある。
しかし、これは日常のコミュニケーションでも起こっていて、そう考えると「いや、言ってることはそうじゃないし」みたいなことが頻発する。
ツイッターでもよく見るアレだ。
だから、普段から自分をまずは殺して、相手が何を言っているのか、理解することに全力を尽くすことが、円滑なコミュニケーションを産む第一歩なのではないか、などとも思う。
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